現代時評《表現の不自由時代》片山通夫

 愛知トリエンナーレが再開された。そして「表現の不自由展」が話題になったことは周知のことなのでここでは書かない。ただ名古屋市長が座り込みをして再開に反対したということだけは書いておく。

 このニュースを聞いていてふと思ったことがある。戦前、特高警察が小林多喜二をはじめ多くの人々が思想犯として逮捕、拷問そして獄死に至らしめた。

 《多喜二に限らず、戦前、思想犯として数十万人が逮捕され、その内7万人以上が送検、400名以上(1,503人とも)が獄死したとされます》(「朝日新聞・平成29年6月1日朝刊)。

 また「あの人の人生を知ろう~小林 多喜二」 に次のような文が掲載されている。

《書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

 特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。

特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。》

 さてここから本題。

もし先に挙げた多喜二をはじめとする「思想犯」ら400人(もしくは1,503人)の人々の像を彫刻されたらこの企画展に物言った人々はどのように反応するのだろう。戦前の天皇の名のもとに不敬罪などで特高警察が取り締まり、拷問し、挙句の果てに死に至らしめた「罪」に対してはどのように考えるのだろう。やはり不敬だの済んだことだと、いや当時の法律を犯したのだからと、取り繕うのだろうか。

 今我々の持つ憲法や法律は「表現の自由」は保証されているはずだ。だから名古屋市長も、おそらく本来ならば許可されない「公共の建物・敷地内」での示威運動も警察権力など公的機関からの排除もされずに「無事最後まで」座り込みができた。

 そうもわからないというか、理解に苦しむ公権力の在り方・・・・。