丹波マンガン記念館物語<7>」:片山通夫
【閉館】
20年の歴史を背負って丹波マンガン記念館は来年閉館の予定だ。李龍植館長は閉館に関して次のように語る。
「父の墓だと思って、相当資金的に無理をしてきました。もう父も良いと言ってくれるのではないかと思います」
なにが館長を20年間も支えてきたのかという問いには「『恨』と『意地』です」ときっぱり。
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【閉館】
20年の歴史を背負って丹波マンガン記念館は来年閉館の予定だ。李龍植館長は閉館に関して次のように語る。
「父の墓だと思って、相当資金的に無理をしてきました。もう父も良いと言ってくれるのではないかと思います」
なにが館長を20年間も支えてきたのかという問いには「『恨』と『意地』です」ときっぱり。
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【20年の歩み】
開館から20年という時間は長いようで短い。さまざまなことがあった。最盛期には年間2万人もの見学者が訪れた。マスコミも地元紙である京都新聞をはじめ、韓国紙、アメリカのニューヨークタイムズなども歴史からの埋没に個人で挑戦する在日2世の戦いぶりを書いた。
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【記念館誕生-2】
実際にマンガン記念館が開館したのは1989年5月のことである。ここにこぎつけるまで2年かかった。何しろ資金がない。資金がないから人を雇って工事をするということは不可能である。設立者の李貞鎬さんは息子たちに手伝わせて、コツコツとつくり上げたのである。息子の李龍植さんはこう語る。
続きを読む>>丹波マンガン記念館物語<5>」
【記念館誕生】 丹波マンガン記念館が誕生したいきさつはこうだ。初代館長で、設立者の李貞鎬さん(故人)は常々「朝鮮人と部落民が過酷な労働をしたマンガン鉱の歴史を埋もれさせるわけにはゆかない」と考えていた。
【歴史の陰で】
現在の館長、李龍植さん(1960年生まれ)の父、李貞鎬さん(故人)は京都府園部町で生まれた在日二世である。李貞鎬さんは自分の父がいつ日本に来たのかはよく知らない。彼が三歳の時に盲腸をこじらせたのが原因で亡くなったという。
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【はじめに】
「ついにその時が来てしまった。アボジ(父)もわかってくれるだろう」
館長の李龍植さん(1960年生まれ)はこう話して唇をかむ。
京都市左京区京北町のやまあいにある丹波マンガン記念館は来年21年になる歴史を閉じようとしている。筆者は記念館閉鎖の報を聞いて取材に赴いた。実は過去に2回、この記念館を訪れたことがあったので、閉館の報には、驚きとともに、やはりという思いもあったことは事実である。本稿では、丹波マンガン鉱の歴史を戦前からひも解き、記念館の生い立ちなど今に至るまでを、数回に分けてレポートする予定だ。(写真:丹波マンガン館入口・片山撮影)
離婚の多いロシア人との結婚
うちには一人、娘のようなのが同居している。名前はオーリャ、次男の恋人だ。
結婚したのと同然の暮らしをしている。彼女はポロナイスクの子で、ユジノサハリンスクに留学に来ている。いつからか、帰らなくなりそのまま居続けてしまった。私も帰りなさいときつく言えなくて、夫も娘がいないものだから可愛く思って、すっかり甘えさせてしまっている。
ターニャのこと
今年うちの長男は大学四年生になる。しかし、大学を卒業してからどうするか、まったく先が見えない。特にこのサハリンでは就職先が全くないから。今やロシア国内どこも同じだけど。一流大学を出ても仕事が見つからず、親の世話になっているのが殆どです。実際、うちの甥たちもそう。結婚までして子どもの世話まで親に押しつける有り様なのです。ここの子どもたちは最近、夢も何もない。一日一日をぼけっとして、何の目的も目標もなく、親のお金で遊んでいるばかり。これは私たちの責任でもあります。こんな国にしてしまったのは私たち大人なんだから。
夫の誕生日
2月11日は夫の誕生日。それも、50才になる記念すべき日です。そう、10年ほど前までの話だけど、盛大な誕生日祝いは還暦のとき、即ち60才になる年だった。しかし、最近ここサハリンでは、それに加えて50才の誕生日も大いに祝うようになった。ここでは近頃五〇を越えるのが難しくなってきたからです。他の国の人が聞いたら大笑いでしょうが。世界的に高齢化が進む中でここサハリンでは寿命が反対に短くなっているのです。これも男性の場合の話ですが。
ルーブル・ショック
1998年ルーブルの為替引き下げ以降は、韓国からの仕入れも容易ではなくなった。ドルで代金を払わなければいけないからです。だから、この1年前からはモスクワからの仕入れが増えてきている。そこに行くと、トルコや東ヨーロッパ、イタリアからの輸入品が安く手に入る。品物は限られているが、例えば革製品、靴や家具などがある。
軌道に乗る商売・百貨店からの誘い
寒い冬一日中外で凍りながら立っていても苦ではなかった。楽しかった、商売することが。そうしているある日、百貨店ツムに空きブースができたから、そこに店を出してみないかという誘いがあった。そこはサハリンにある2つのデパートの中の1軒です。そこに店を持てたら、それは今までのバザールのおばさんではなく、立派な社長さんです。
ユジノサハリンスクへ
残された選択は一つ。理性や自制心のある親が譲ること、つまり夫と私が通勤すれば良いのです。
それで大学のあるユジノサハリンスクの中心部にアパートを購入した。五階建ての四階にある2LDKのアパートです。交通の便がいいから、歩いてどこへでも行ける。(治安さえ良ければの話ですが)車で5分の距離の中に生活に必要なすべての機関が集っている。部屋の窓からは中庭が眺められるし、アパートの後ろには小川が流れているし、隣は公園。最高に良い場所です。
皆、自分で運んだ
苦労はしましたが、着々とお金も貯まっていた。私には見る目があるのか、殆ど不良在庫がなかった。よく売れました。特に、冬の帽子なんかは飛ぶように売れていった。ミンクの帽子ではなく、牛皮のスポーツ帽子みたいなのが若者に受けて、一時期大流行したの。
変化の兆し:転職
私たちの生活も変わってきた。今まで勤めていた会社が民営化してから、日本企業の資本を入れるようになった。それで、日本に社員旅行をするという幸運に恵まれたのです。
韓国って国あるの?
モスクワまで行ってそこで乗り換えて、プラハへ到着。初めての海外旅行でとてもウキウキしていた。不安もあったが、チェコはロシア語が通じるし、チェコの言葉だってロシア語に似ているから言葉の心配はなかった。
ロシア国籍を取るのは難しい
これも50、60歳のおじさん、おばさんたちの話で、私たち2世は皆ロシア語が母国語だ。だから、時々朝鮮語が混じってはいるが、ロシア語で話をするわけ。ただ、親の世代と話をするときは朝鮮語を使う。
家でもロシア語です。子どもたちに朝鮮語を教えようと考えたこともない。だってこの国では必要ないからだ。それにどうせ私たちは祖国に帰れずこの国でずっと住むだろうから。私たち2世も朝鮮語を意識的に親が教えようとして覚えたわけではないのです。親がそれしかしゃべれないから、仕方なく覚えた言葉です。もちろん、一時期朝鮮学校には通ったけど。
だから私たちはロシア人として生きていくことしか考えなかった。親とは違って、大人になってからはロシア国籍を取ろうとした。しかし、取ろうとして皆取れるものではなかった。親が無国籍の場合、子どもも差別を受け、なかなかロシア国籍を出してくれなかったのです。
信じられるのは朝鮮人だけ
私にもロシア人の友達はたくさんいます。学校の友達、会社の同僚。しかし、心を打ち明けて付き合えるのは、やはり朝鮮人だけです。ロシア人は信頼できない。その場限りの付き合いで終わり。だからどんなに長い知合いでも家に行き来する友達は朝鮮人ばかり。ここの2世は皆韓国語を話せる。片言でも。それに文字も読むことができる。朝鮮学校を出た者も多いから。家で、親がロシア語を話せなくて、全部朝鮮語だったから、日常会話は大して問題ない。外では勿論ロシア語を話す。でも、同じ民族の友達だと、なぜか朝鮮語混じりのロシア語になってしまうのです。
「ここが好きでいるわけじゃない。出してくれないからいるんだ!」
しかし、配給のときの辛さは待つだけではなかった。よくロシア人と喧嘩もした。馬鹿なロシア人は朝鮮人って、皆同じ顔に見えて見分けることができない。だから、並んでいると、「お前さっきも並んでいたじゃないか」と怒るわけ。大部分の大人しい朝鮮人はそう言われたら無視するか、しつこくされると譲るか、どちらかである。特にロシア語のできない1世たちは泣き寝入りで、そのまま帰って来たりした。しかし、私は違う。負けるもんか。こっちも「馬鹿、目はついているのか、どこを見ているのか、ちゃんと見ろ!」と対抗する。ときには暴力沙汰にまで発展したりする。そうすると、「お前ら、どうしてここにいるのか、自分の国へ帰れ」と言われるの、最後は。
「ここが好きでいるわけじゃない。出してくれないからいるんだ!」
しかし、ここまでは言えなかった。後が恐くて。だから、いつも喧嘩しても最後には負けてしまっていた気がする。
そのおばさんはゆっくり話してくれた。
外国語放送をラジオを聞くことは、当時ソ連当局から禁止されていた。同じように当時ラジオ放送を聞いていたというコルサコフのユン・サンウン、ハム・ボクファさん夫婦を訪ねた。妻のハム・ボクファさんとは、コルサコフのバザールですでに知り合っていた。まずそのときの話を紹介しよう。彼女、ハム・ボクファさんは、最初からすごくやさしい印象のおばあさんだった。永住帰国の第一便で韓国へ夫婦で帰国することが決まっている。
ヴァーリャの新婚時代―就職そしてコルサコフでの生活
結婚式をあげて3年目にコルサコフに新居を作って、ハバロフスクから呼び寄せた夫は地元の電気工事会社に就職し、私は魚の加工工場に就職した。
コルサコフは魚の加工業が盛んで、薫製や缶詰工場が数多くあった。そして、市内から少々離れた所にはサケの養殖場も多数あった。
北へ強制送還
ユジノサハリンスクに住む一人のお婆さんにインタビューを試みた。彼女の長男がこの事件で北朝鮮へ連れ去られて今も消息は不明だというのである。そのインタビューを紹介しよう。彼女の名前は彼女の希望で伏せておく。
帰国できるのか?
あるとき私が仕事から帰ってくると珍しく父がとても嬉しそうな顔をして迎えてくれた。「何ごとかな、明日は西から日が昇るわ」と思って聞いてみると、「もしかすると祖国に帰れる」と、ウキウキしていたのだ。ソ連政府から帰国希望者の名簿を調べていると言って、お昼に朝鮮人の知合いが訪ねてきたと言うのだ。フルシチョフ時代になってきてソ連も少しは変わってきた。以前と違って、少しは思ったことを言える時代になったのです。勿論両親も名前を書いて出した。もう苦労も終わって、暖かい故郷に帰るんだ、と朝鮮人社会はまるでお祭りのように賑わって希望に満ちていた。
北朝鮮の宣伝
祖国があまりにも恋しいゆえに、北朝鮮の国籍を取った人もかなりいます。
私が小学校に入る以前からの話ですが、一時期、伝染病のように北朝鮮籍を取る人が増えてきた。ロシア国籍を取らずに無国籍のままで居続けた人の殆どがそうだったかも知れない。実際、うちもその一人だったから。
漆黒の海に流れる泣き声
悲しみのコルサコフ
時々母は一人暮らしをしている隣のおじさんの所にご馳走を持って行ったりした。両親と同じ故郷のおじさん。そのおじさんは23才のとき、連れて来られたそうだ。結婚もして息子が3才のときに。薬屋をしていたある日、3人家族が深い眠りに就いているとき、いきなり日本の警官が現われ、そのまま連れて来られたそうです。妻子を残してきた人は1人や2人じゃない。大勢います。いや、そんな人の方が多いでしょう。そんなおじさんたちは多くがコルサコフという港町に住んでいる。
下りない許可
国籍問題で家族皆が大泣きした事件があった。姉の大学入試のときです。姉は遊び好きの私とは違って、大人しくて真面目で、成績はいつもクラスで一番だった。家族の誇りだった。そんな姉を親は大陸の看護大学としては超一流の大学に入れようとした。本人もそのつもりでがんばった。願書は郵便で出しておいて、試験を受けに行く用意をしていた。当然、警察に許可願いを出して。しかし、試験日がどんどん近づくのに許可証が下りない。あせって様子を聞きに行くと「待ちなさい!」の一言。待つしかなかった。
下りない許可
国籍問題で家族皆が大泣きした事件があった。姉の大学入試のときです。姉は遊び好きの私とは違って、大人しくて真面目で、成績はいつもクラスで一番だった。家族の誇りだった。そんな姉を親は大陸の看護大学としては超一流の大学に入れようとした。本人もそのつもりでがんばった。願書は郵便で出しておいて、試験を受けに行く用意をしていた。当然、警察に許可願いを出して。しかし、試験日がどんどん近づくのに許可証が下りない。あせって様子を聞きに行くと「待ちなさい!」の一言。待つしかなかった。
4キロ先には行けない。
無国籍の私たちはサハリン内も自由に動けなかった。学校が休みのとき、親戚の家に遊びにいくことも、前もって警察に申告して許可が下りるまで待っていたのです。ロシア国籍を持っていない人たちは4キロ先には自由に行くことができない。法律がそうなっているんだから仕方がない。
ヴァーリャはこのような時代に学校教育を受けていた。
朝鮮人の子どもは一生懸命勉強して、成績も皆よかった。しかし、優等生の賞状を貰う子は少なかった。ロシア人の嫉妬があったのです。成績は5段階に評価される。私もよく勉強のできる子だった。でも科目の中で必ず5点満点をもらえない科目があった。それは国語です。
ヴァーリャの子どもの頃
このような歴史があって、この地サハリンで私が生まれた。
1952年に生まれたから、私は終戦直後の混乱のことは勿論経験していない。しかし、今になっても当時のことをよく耳にします。特に韓国とロシアとの国交樹立以降は殆ど毎日こんな話をどこかで聞く。うちは5人兄弟で、家族7人でオオタニという村で暮らしていました。これは日本語の地名です。
ヴァーリャの話に出てくる朝鮮人の夫を持つ日本人の女性たちはソ連時代、密やかに生きてきた。そんな女性たちにもインタビューを試みた。日本人妻たちも自分たち自身の永住帰国問題で心を悩ませていた。
再びヴァーリャの話に戻ろう。
朝鮮人も日本人だったのよ
色々な悲劇が生まれた。
そんなある日ソ連軍が入ってきた。もう自由には帰れなくなった。日本人も朝鮮人も同じように、この地サハリンに閉じ込められてしまった。
虐殺事件に関しては、ベ・ヨンスク元記者が詳しい。彼女はサハリンの朝鮮語新聞「セ・コリョ(新高麗という意味)」の記者である。彼女はこの事件を最近まで詳しく追っていて、当時のKGBの資料まで手に入れて記事にした。彼女にあって取材した。
戦争が終わった
だから、日本が戦争で負けたと聞いたときは、奴隷のような生活から解放され、やっと祖国に帰れると皆が涙を流しながら喜んだと言う。しかし、その喜びも束の間。そのときは、誰も思わなかった。いや、想像もできなかった。今まで以上の苦しい日々を送らなければならないとは。韓国や日本では開放記念日(終戦記念日)が8月15日と聞いたことがある。ところが、サハリンでは9月3日なのです。
戦争の頃
1910年、朝鮮は日本の植民地となった。そして、日本の大陸進出が始まる。それは37年の満州事変から始まり、41年には太平洋戦争にまで発展した。
1905年、日露戦争で日本はこのサハリン島の南半分を獲得した。
結婚
私は23才のときに結婚しました。夫があまりにもしつこく私を口説くので折れてしまったのです。あるときオオタニに都会の青年たちが「嫁探し」に来るからと友達に誘われて待合せ場所に行ったの。「田舎のお姉ちゃんたちの方が汚れていなくていい」とわざわざ田舎へ出向いてきたのです。
ジャーナリスト・ネットに掲載した「サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生」を転載する。
ヴァーリャの半生
ユジノサハリンスク(旧豊原)に1人の韓人女性が住んでいる。両親は戦前朝鮮半島から来た人で、当時の生活を親たちからこと細かに聞きながら、また実際に経験して育ち、ソ連時代のサハリン韓人の生活、そしてペレストロイカ、ソ連崩壊の激動を潜り抜けてきた彼女の生き様は今のロシア庶民の生活を知る上でも非常に参考になる。彼女の半生を追いながら当時の検証をしてみる。彼女の名前は韓国名「徐 順愛」、通称ヴャーリャ。底抜けに明るい韓人2世である。
ルポルタージュ[サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生]の連載(毎日)をジャーナリスト・ネットのサイトではじめました。
ヴァーリャはサハリン残留朝鮮人の家庭で生まれた2世の女性。両親から聞いた話や彼女自身がソ連邦時代に経験した話、結婚、起業など興味深いエピソードの数々!
「サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生」をジャーナリスト・ネットで8月20日から連載します。
以下は予告
ユジノサハリンスク(旧豊原)に1人の韓人女性が住んでいる。両親は戦前朝鮮半島から来た人で、当時の生活を親たちからこと細かに聞きながら、また実際に経験して育ち、ソ連時代のサハリン韓人(サハリン残留朝鮮人)の生活、そしてペレストロイカ、ソ連崩壊の激動を潜り抜けてきた彼女の生き様は今のロシア庶民の生活を知る上でも非常に参考になる。彼女の半生を追いながら時代の検証をしてみる。彼女の名前は韓国名「徐 順愛」、通称ヴャーリャ。底抜けに明るい韓人2世である。彼女のインタビューを独白の形で20日から毎日お送りする。お楽しみに・・・。