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「敷香という所、オタスの森」:片山通夫

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 サハリンは北緯50度以南が日本領だった。1904-05年の日露戦争の勝利の結果ロシア領だったサハリンはその南半分が日本領土となった。樺太庁が置かれ、豊原(現ユジノサハリンスク)がその中心の町。豊原から延びる鉄道に乗って北へ。およそ一晩で敷香(しすか)につく。敷香にはオタスの森があった。幌内川(写真)のほとりである。

 オタスの森は、樺太に住んでいた北方少数民族を我が国が「高等教育を受けさせてに日本人として」同化するために設けられた北方少数民族の集落である。そこには小学校があり、我が国が「必要とする」人間を作るための教育がなされた。そして日本国民からは「土人部落」とさげすまされてまるで見世物のような扱いを受けていたという。

 先の戦争末期には、ツンドラで生活する彼らの能力を買って、軍の斥候としても利用したケースがあり、敗戦後、シベリアへ抑留された人々もいた。また現在も樺太の先住民族としてウィルタ、ニヴフ、エベンキ、ヤクートなどの少数民族がすんでいる。
080328-3mk.jpg 筆者は現在ポロナイスクと呼ばれている敷香を訪れた。かつて、日本統治時代にはパルプ工場があり隆盛を極めたという。この町でないオタスの森の住人たちやその子孫に会った。流暢な日本語を操るおばあさんがいた。また「私の父は日本人として生きてきたが」と食ってかかる人もいた。何の保証もしない日本政府への鬱憤なのだ。ここにもまだ清算されていない歴史があった。(写真:北方少数民族博物館前で 少数民族の人々)

 ポロナイスクは前述したように川がある。幌内川だ。筆者が行った時、川は凍っていたので渡し船には乗れなかった。テクテク歩くと結構な距離である。その向こう岸にオタスの森があった場所だ。オタスの森は当時観光地でもあったようだ。樺太鐵道株式會社沿線案内によると「エキゾーチックなローカルカラー」だったそうである。
  
 筆者がサハリンを行くと、必ずかつての日本人が民族差別を当たり前のようにしていた事実にぶつかる。それを探し回っているわけではないのだが。

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  参考のために「樺太鐵道株式會社沿線案内」を以下に挙げる。

敷香町はシツカリの轉訛(山の此方の意)にして、露人はチフメネフと稱し、多來加灣に望む東海岸屈指の市街地で、支廳、警察署、林務所等の諸官衙もあり、國境方面一帶の奥地を控えて其の咽喉を扼し、交通上にも最も樞要の地位を占めて居る。
元は漁業地として發展の礎を築き、今は木材竝に一般物資の集散地ともなり、現に商家櫛比して町勢も急速なる發展を遂げ、殊に日本人絹パルプ工場も建設され、現市街人口二萬五千を擁し、名實共に北方の雄都として更に興隆の機運に輝きつゝあり。
又遠く源を露領に發し南下する幌内の大河は敷香、千代露内の支流と共に町を繞りて流れ、水鄕として風光に富み情趣頗る豐かな街である。旅客若し發動機船を賃しこの樺太アマゾンの稱ある國際河川、幌内川を渡りて對岸に到れば、其處に落葉松や白樺茂る「オタス」の森があり、一望涯なきツンドラ地帶(蘚苔類の堆積層)に馴鹿や樺太犬と共にオロツコ、ツングース其の他の種族が原始的のキヤムプ生活を營んで居る。これ吾が敷香町のみが持つ國内唯一のエキゾーチツクなローカルカラーである。
敷香港より海豹島まで海上七十二浬なり。
(樺太鐵道株式會社沿線案内『樺太へ奥地へ』昭和十二年版より)