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コラム「つつましい希望と三船殉難」

 「日本の最も長い日」8月15日から一週間が経った1945年8月22日。北海道樺太から引揚げの輸送船3隻が相次いで遭難した事件があった。この遭難事故で1700人を超える死者・行方不明者を出した。いわゆる「三船殉難事件」である。

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 樺太(サハリン)の大泊(コルサコフ)から小樽に航行中の泰東丸など三隻を攻撃したのは、旧ソ連太平洋艦隊所属の潜水艦L19号と、僚艦L12号だったと見られているが、ロシア側は現在もこれを認めていない。

 筆者がこのほどサハリンで入手した新聞「ソビエツキー・サハリン」(2007年7月18日付・写真)に興味深い記事が掲載されていたので少し長いが引用して文末に掲載する。

 この記事から見ると留萌沖で引揚船を攻撃したのは明らかに、旧ソ連の潜水艦である。またこの攻撃はスターリンの野望・北海道上陸・占領(サハリン南部(旧樺太)や、我国固有の領土としているいわゆる北方領土のみでなく)のステップだったことがわかる。
しかしアメリカの確固たる反対によってスターリンは北海道分割統治の野望を捨てたということか。それにしても「米ソによる北海道分断統治」とは、なんとも「つつましい希望」であることか。

 ソビエツキ-・サハリン紙の記事ではこの潜水艦L19号が「最後の通信」を絶ってから行方不明になり、現在もまだその所在が不明だと報じている。そして、同じように宗谷海峡で沈んだままの米潜水艦やL19号などを追悼する式典が今年7月8日に開催された。また「コノネンコ艦長には、その後、祖国戦争第一級栄誉勲章が授与され、乗組員にも第一級、および第二級の勲章が授与された」と記事は結んでいる。


「ソビエツキー・サハリン」(2007年7月18日付・要約)

サハリン州公文書館から提供された資料に次のような事実が確認された。

 L19の沈没は、1945年8月に日本海戦で起きたもっとも大きな痛手であった。この船の乗組員についての情報はきわめて限られている。 内外の資料に当たっても、お互いに食い違った情報ばかりだ。分かっていることは、潜水艦L19(コノネンコ艦長)がL12(シェルガンツェフ艦長)と共に北海道の北東、留萌港の付近で軍務に従事していたことである。
スターリンは1945年8月16日付のアメリカ大統領トルーマンに対する書簡で「つつましい希望」として、ソ連軍が北海道の北半分を欲しいこと、東岸にある釧路と西岸にある留萌の間で線引きするのが「民主的な方法」であろうと書いている。
この「希望」にそって、極東地区最高軍事司令部は、南サハリンの掌握にひき続いてすぐ、つまり8月22日、23日に北海道にも上陸する計画を立てた。
 この計画に基づいて、所属する第1潜水艦隊に次のような命令(OP00455令の一部))が下された。

命令:任務は次のようなものである。
占領軍を留萌港に送る。情報収集と物資運搬の護衛の目的で、2隻のL型潜水艦を派遣する。その任務は
A 1945年8月23日21時までに留萌港にちかづく船の情報収集
B 8月23日21時からは敵の殲滅と状況報告
作戦中に遭遇した敵の船はすべてを殲滅すること。作戦はすべてまかせる。

8月22日4時55分、留萌港近辺で、第二新興丸を攻撃。船が壊れたにも関わらず、乗組員は船を岸までつけて、そこの浅瀬で放棄した。だが、第二新興丸に乗っていた南サハリンからの引揚げ者553名が攻撃の最中に死亡。
5時16分、L19のコノネンコ艦長は新たなターゲットである泰東丸を発見。潜水の状態でその後を追い、100mm砲で攻撃、留萌沖6マイルの地点で撃沈した。乗船していた780人は全員死亡。
潜水艦L12は留萌付近で小笠原丸を撃沈。・・・・。

 翌8月23日、日本政府はA・ワシリエフスキー元帥に、潜水艦による攻撃を止めるように請願した。チャバネンコ将軍は無線で潜水艦に、攻撃を止め、情報収集だけに従事するように指令。だが、北海道近辺における攻撃の中止の主な理由は、ソビエト軍中枢の方針変更のためであった。アメリカ軍が北海道の北半分をソ連の占領に任せることを拒否したため、8月22日14:55分にワシリエフスキー元帥は、クズネツォフ、ユマシェフ両提督に「サハリン駐屯の我が軍の北海道における攻撃を控えるべし」というスターリンの指令を伝えた。
8月23日、チャバネンコはL19に電報をうち、アニワ湾に赴いてそこで情報収集をせよとの命令をだした。
同日14:20L19から参謀本部にこの艦から最後の通信が入った。「10.32 4513C、D-140 00 B(注:場所を示す数字) PLが攻撃された。19:00海峡の強行突破を開始する」