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インタビュー 波間三平さんに聞く-1 樺太脱出

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 12月のクリスマス前に真冬の稚内へ向かった。そこに昭和20年戦争終結当時、樺太(現サハリン)から脱出し、その後また樺太へ密航を2回やってのけた男がいるという話だったので彼に取材するために赴いた。(写真は当時のことを樺太地図を前に話す波間三平さん・78才)

 昭和20年8月といえば、記憶のある人、歴史で習った人、それぞれの思いがある思う。その8月22日の深夜、夜陰にまぎれて1隻の艀が北の海に乗り出した。18歳になる若者が艀の舵を握っている。艀はエンジンがついてないのでそれ自体独航できない。ポンポン船と呼ばれる5トンくらいの小さな漁船に曳かれている。ポンポン船にはこの若者の父親が乗って舵を握っている。排気音を消すために海水でどっぷりと濡らした筵を排気管に巻き付けての航行であった。

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 場所は樺太(現サハリン)の西海岸、本斗(ネベリスク)の港。艀には250人の女と子供が乗っていた。戦争が終結したというのに、ソ連軍は艦砲射撃や航空機での爆撃、機銃掃射などの容赦ない攻撃を南樺太の町々に加えていた。この密航は、それを逃れての決死の逃避行だった……。

 ここまで話して、今年78歳になる波間三平さんは、目の前にある樺太の地図に目をやった。ここは日本最北端の街、稚内にある「波間漁業」の事務所。終戦直後の樺太から大勢の日本人を連れて密航帰国した男がまだ健在だと聞いて、私は彼を訪ねて稚内までやって来たのだ。
 波間さんは樺太の本斗の北にある小さな町で生まれた。父親は富山県から樺太に来て漁業を営んでいた。当時の樺太はニシンの漁場として素晴らしい所で、父はニシンの加工工場をふたつ経営する「成功者」。何不自由のない生活だったという。樺太では鮭が今の日本では想像できないくらいたくさん遡上してきた。川という川が真っ黒になるくらいのものだった。波間さんは駐在する警察官の眼を盗んで鮭を手づかみして遊んだものだと豪快に笑う。

 しかしそんな生活も戦争のおかげで一変した。命の危険さえ感じた一家は、すべての財産を捨てて、命からがら稚内に向けて密航することになった。
 「何しろ25馬力の焼玉エンジンで250人の人間の乗った艀を引っ張るのだから、船は遅々として進まんのです。ポンポン船だけなら稚内まで8時間か10時間あれば着くのだが、この時は時間がかかった。ちょうど海馬島(サハリン南部の西海岸に浮かぶ島)が見えてきた頃はもう明るくなってきていた。若い女たちは退屈なのか、唄など歌いだしてそれは平和な航海だった。しかしそれも束の間、轟音を響かせて西の空、ちょうど海馬島の島影から戦闘機が3機現れて、機銃掃射を何回となく浴びせかけた。歌声は悲鳴に変わった。大変なことになったと思ったが、数回の機銃掃射で終わり、犠牲者は出なかった」。
 「それからは皆シュンとなって歌も出なかった。まあそれだけで済んで無事稚内の港に着きました。何しろ日本海を北に流れる対馬海流に逆らっての航行だったから、ずいぶん時間がかかって、やっと稚内港の赤灯台を見たときには大きな歓声が上がりましたよ」。
 波間さんが帰国した翌日には、最後の稚泊連絡船(稚内⇔大泊)宗谷丸が港に入った。港は引揚者でごった返した。稚内は小さな町なので引揚者を長期間抱えていることが出来ない。それで国鉄(当時)が『行き先の書かれていない』白切符を出して、引揚者たちを希望する各地へ送り出した。一旦降りたら前途無効、しかし降りなければどこまでも行ける白切符だった。
 こうして樺太からの引揚者たちはそれぞれ親戚や縁故をたどって全国に散らばった。しかし波間さん一家には行く当てがなかった。また稚内という土地がニシン漁に向いていると父が判断したこともあり、この町に留まった。そして裸一貫からニシン漁を始めた。引揚者の生活苦は言葉に尽くせないものがあったことだろう。(29日に続く)