« サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生 | メイン | サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生 »

サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生

そのおばさんはゆっくり話してくれた。

 外国語放送をラジオを聞くことは、当時ソ連当局から禁止されていた。同じように当時ラジオ放送を聞いていたというコルサコフのユン・サンウン、ハム・ボクファさん夫婦を訪ねた。妻のハム・ボクファさんとは、コルサコフのバザールですでに知り合っていた。まずそのときの話を紹介しよう。彼女、ハム・ボクファさんは、最初からすごくやさしい印象のおばあさんだった。永住帰国の第一便で韓国へ夫婦で帰国することが決まっている。

皆苦労した

日本?遠くから大変でしたね、会えて嬉しいよ。

 永住帰国? まだよくわからないよ、行くべきかどうか。だって子どもを置いて行けるかなと思って。今まで決心がつかなかったけど、来年が最後の機会だと言うから申し込みだけはしたけど。私は子どもが3人いて、みんな家の近くに住んでいるの。ああ、黒い髪の人を見るだけでも嬉しくて涙が出る。ここでは皆が故郷が恋しくてね。食べて行くのは問題ないのだけど、故郷が恋しくて。
 みんな、お爺さんたちは特に苦労したの。もう殆ど亡くなって一割も残っていない。皆募集で来られてね。募集で連れて来られて罪人みたいに働かせられて。そのお爺さんたちは戦争が終わってから、帰られると思ったのに帰ることができないとわかって、狂ってしまいそうな思いをしたの。朝鮮に置いて来た家族と幼い子どもたちに会いたくて。手紙を出しても届かないし。だから気も狂わんばかりだった。それで結局狂ってしまって亡くなった人も多いよ。
 昔はここにお爺さんたちが大勢住んでいたのよ、何千人も。皆独身生活だった。まるで兵隊みたいに働かせるために連れて来ては、戦争が終わると自分たちだけが引き揚げて、私たちは「ロスケ」に縛られて手紙の一枚も書けずこんな生活をしてきたんだよ。

ラジオにかじりついて

 祖国のことを考えるとこんなに涙が出るのよ。(ここまで話して彼女は泣き出した)戦争が終わってから家を買ったんだけど、火事にあったの。昔は火事も多かった。そのとき、友達がお金を集めて家を買ってくれてね、それで農業を始めたの。それで作ったものを売りにバザールに出ることになったの。もう30年くらいになる。こうやって働いて子どもを育てて、家も買ってあげたし。暮らしには問題ない。ただ祖国が恋しいことだけが。私たちには家族がいるからましなほうだよ。

 一人暮らしのお爺さんたちは毎日お酒を飲んで、海を見るたびに泣いてね。目の前にあるあの海さえ渡れば祖国に帰れるというのに、どうして帰れないのか、と毎日毎日泣いていた。韓国からは手紙一本ない。誰かの家にラジオがあると聞いたら、その家に行って夜を徹してラジオにかじりついていた。もしかしたら、祖国からいい知らせがないかと思ってね。そうしてるうちにお酒ばかり飲んで亡くなった方が何千人もいるの。独身者たちはかたまって住んでいて、死んだらお互いに埋葬してあげたりしていたの。

 われわれが韓国で「夫の墓を探してしてくれ」と依頼されたことがあった。ブイコフの墓地で手を尽くして調べてみたが、わからなかったことがあった。そのことをハム・ボクファさんに話すと。

連れて来られた罪

 人を探すのは難しいの。なぜかと言うと、独身者同士が埋葬してあげたりしたでしょう。近所で世帯をもって暮らしている人が埋めてあげたって、身の上のことを書いたりしないからね。私も近所のお爺さんが亡くなって埋めてやったことがある。若いときは一人で暮らしていたが、年とってからロシア人の女性と一緒に暮らすようになったの。ある日、その女の人が走ってきたの、お爺さんが亡くなった、と。それで3日間走り回ってお葬式を出してあげたが、そのお爺さんを探す人はまだいないね。忠清南道大田の人らしいけど、それしか知らない。

 うちのお爺さんがもっとも帰りたがっているの。私は女だから子どもたちを置いては行きたくないと言っているのだけど、これ以上年取ったらどうやって帰るつもりかとせがまれて。喧嘩? 言うまでもないでしょう、そのことで毎日喧嘩したのよ。でもついていくしかないでしょう。でもね、たいがいはお母さんたちが子どもたちのことで帰ろうとしないの。私たちは大丈夫よ、でももう少し早くここのお爺さんたちのことを探してくれたならば、お爺さんたちが故郷に帰れたのに、と思って。

手紙もない、新聞やラジオを聞いても自分の名前はない。

 それで朝鮮人は人間じゃないと言う人までもいたの。ここに連れて来られてこんなに故郷のことを思っているのに、同じ民族でありながらどうしてこんなに無関心かと。大統領が一言言ってくれると、あのお爺さんたちは帰れるかも知れないのに、どうしてこんなに冷たいだろう、と。私も思ったことがあるの。私たちはどうすることもできなかったんだから、「連れてこられた罪」しかないのに。

 ハム・ボクファさんの話す「連れてこられた罪」という言葉のもつ意味を十分に理解してほしい。

この国で暮らす。

 戦争が終わってからはロシア人はお人好しで仲良くしてきたの。仕事もくれたし、給料も同じようにくれたし、どうせこの国で暮らさなきゃいけないんだったら、頑張って良い暮らしをしてほしいとね。今は世の中が変わって泥棒も多いけど、昔はそんなのなかった。暮らしやすかった。戦争が終わってから3年間は苦しかった。しかしその後は大丈夫だった、子どもたちに教育もちゃんと受けさせた。

 当時当局に隠れて韓国語放送を聞いていたハム・ボクファさんの夫、ユン・サンウンさんの家に着いたのはもう10時頃だった。それでも彼は気持ちよく当時聞いていたラジオを操作しながら、ラジオ放送の話をしてくれた。

ユン・サンウンさんの話。

 今は10時過ぎたから音がよく入らない。韓国放送は決まった放送時間がある。今10時だからもう遅い。いつも20時。その時間には皆が集って聞いていた。韓国に帰れず、そのときは朝鮮と言っていたが、朝鮮に帰ることもできないし、向こうからは何の消息もない。

 だから、皆は気が狂ったようにラジオばかり聞いていた。しばらくしてから仕事を始めたが、お金ができればそれでお酒ばかり飲んでね、食事もちゃんとせずに。私がここに来たのは23才のときだよ。それで今88才になったが、そのときの友達は皆死んでしまって、私だけが長生きしてるんだよ。昔はこのコルサコフにたくさんいたんだ。何かがあるとすぐ部屋がいっぱいになるほど集っていたのに。今はこの近くに私のような高齢の人は2人だけ、皆亡くなってね。
 
。帰りたい。65年間もこの寒いところで苦労してきたんだから、もう十分だ。暖かい故郷に帰って住みたいよ。

 そうつぶやく夫の横から妻のハム・ボクファさんがこう言った。

ここの方が長い生活なのだ。

 「この人は自分の故郷で暮らしたのは23年だけで、ここでは65年。こっちの方がもっと長いのよ。なのに。でも、故郷というものがなんなのか、私も18年しか暮らしてないのに忘れられないのよ。故郷って恋しいものだよ。毎日じゃないけど、例えばお正月、お盆とか、また、天気がスッキリしない日とかになぜか思い出して、寂しくなるの。しょっちゅう、思い出す、忘れられなくて。
 ここでこうやって子どもを産んで育てながらも、何かあるとつい昔、朝鮮ではね、ということをすぐ口にしてしまうの。どうしてか、このロシアの地にはね、こんなに朝鮮人同士が皆仲良くして暮らしてきたし、朝鮮のまま生活をしてきたのに、そしてロシア人にもよくしてもらっているのに、なぜか愛情が湧かないんですよ、ここには。故郷が忘れられない」。

 長い人生の中でたった20年ほどしか生きてこなかった朝鮮が恋しくて、帰りたい、忘れられない、とラジオにかじりついた人々がここにいる。
 少しでも朝鮮に近いところでと、港町のコルサコフを選んで住んでいる人々がいる。