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サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生

北へ強制送還

 ユジノサハリンスクに住む一人のお婆さんにインタビューを試みた。彼女の長男がこの事件で北朝鮮へ連れ去られて今も消息は不明だというのである。そのインタビューを紹介しよう。彼女の名前は彼女の希望で伏せておく。

私の長男が

 息子を北朝鮮に奪われたお婆さん(ユジノサハリンスク在住、82才)はわれわれが訪れるのを薄暗い部屋で待っていてくれた。

そんなに帰りたいなら、帰れ。

 1977年1月15日に息子たちは連れて行かれました。北朝鮮へ送られたことでしょう。当時長男は28才、生きていれば55才かな。そして、3つ下の嫁、そして2才と生後3カ月の孫娘、一家4人を奪われました。北朝鮮に強制送還された長男の他に娘3人、息子が3人ありますが、元々はマカロというところに住んでいました。

 長男は小さいときから勉強のできる子で大陸のノボシビルスクというところの大学に留学もした子です。お酒も煙草もやらない真面目な子で、大学の専門が気に入らないから他の勉強をすると言って帰って来ていました。それからユジノサハリンスクに出かけたりしているうちに恋愛して結婚したのですね。お嫁さんはとても優しく性格の良い娘でした。結婚してしばらくは嫁さんの実家で同居していましたが、その家を出たいというので私がお金を借りるなどして、今のこの家を買ってあげたんです。ここに引越したのが9月ですから、新居を作って3カ月も経ってないうちに連れて行かれたことになるんです。連れて行かれたのは、嫁のお父さんが、帰国をしつこく要求したからです。

 当時、義理のお母さんは亡くなってもういませんでしたが、お父さんがKGBに「われわれを韓国に返せ」と強く要求していたんですね。そのために数回逮捕されたりしてたんですが、いくら説得しても聞かないから、そんなに帰りたいのなら帰れと北朝鮮に強制送還してしまったんです。一家の家族皆を呼び集めて、一緒に。それでうちの息子も。他にも何世帯かがそうやって連れて行かれました。1月、冬の間食べるキムチ漬けの仕事で皆が忙しくしていました。

 12日にユジノサハリンスクの嫁さんから私たちが当時住んでいたマカロに電話がありました。当時は家に電話の置いたある時代じゃないからなにかがあれば郵便局に電話をかけたんです。キムチ漬けのお手伝いができなかったことのお詫びの電話でした。新しい家の下水道工事とキムチ漬けを無事に済ませたこと等を言ってきました。

 それから3日後の晩です。近所の人が来て急いでユジノサハリンスクへ行ってみなさいと伝えてくれました。最初は誰かが死んだのかなと思いました。夜行列車に乗って朝息子の家に着いてみたら、彼らの姿は見えず親戚が何人か集っていました。翌日警察に行ってみましたけど、面会はさせてくれませんでした。子どもは女たちと一緒にして、男たちとは別の部屋に入れられていました。窓から息子の嫁と孫娘の顔が見えました。嫁が窓から孫娘ナージャの顔を見せてくれたのです。
 
「生きていないよ」

 その日、バスに乗せられるのを見ました。それが最後です、息子の顔を見たのは。乗せたバスはどこかへ行ってしまいました。最終的には飛行機に乗せられて北朝鮮に送られたようです。彼らは進んで北朝鮮に行ったんじゃありません、絶対に。そのときはちょうど、2番目の孫が生まれて100日になる日が近くなっていたのです。息子の家に来てみたら、そのお祝いの日のために、いろんなものを用意して置いてありました。それに、ベッドの下には、翌年5月にお父さんの還暦祝いのときに使う豆などがしまってあったんです。

 北朝鮮へ行く人たちがそんなことをするはずがないでしょう? いきなり逮捕されて強制的に送られたに違いありません。その後いくら政府関係者に請願しても生死さえ確認できないんです。10年間あちこちに頼んでKGBに話をしてもだめでした。もう30年です。生きているとは思いません。多分死んでいます。誰かが生きて逃げて帰ってきたとの噂も聞いていないです。何も持って行けず裸同然で行ったから多分お腹が空いてか、病気かで死んでいます。生きておりませんよ。山の奥か炭鉱とかに入れられる前に飢死したと思います。

 「ずっと涙の生活で」

 私はもう息子をなくしたんですよ。飛行場でいくら泣いても無駄。毎日泣きました、10年間。ゼンマイを買ってきては泣き、お肉やお米を前にしては泣いて。夜犬が吠えると、もしかして息子たちが帰ってきたかなと心臓がドキドキしました。あげくは神経がおかしくなって病院にまで通いました。飛行機の音を聞くだけで胸が締め付けられるから、ユジノサハリンスクには行きたくないと言い張ったのですが、お父さんが亡くなってから子どもたちがあまりにも強く言うものですから、しかたなく来ました。この家は息子たちの住んでいた家です。息子たちが行ってしまった後、妹が住んでいたのですが、今は私一人で留守番しています。息子たちはもう死んでいるでしょうけど。それから私はずっと涙です。

 薄暗い明りが一つだけ灯っている一人暮らしの家で、彼女は北朝鮮へ連れて行かれた息子たちを「もう死んでいるよ」と自分に言い聞かせながら、それでも諦めきれないで生きてゆくのはどんなに辛いだろう。「飛行機の音を聞くだけで胸が張り裂けそうになる」
 この老婆の言葉どのように聞けば良いのか。

ここにソ連当局の一つの記録がある。

 (ユジノサハリンスクに住んでいた)ファン・チェリョンの国外追放に関する決定である。

 ソ連に居住するファン チェリョンは、ソ連に居住することを望まず、何度もソ連出国を請願したので、この先ソ連に居住する意思はないものとみなし、1977年1月14日、ソ連出国のビザを発給した。証書類を渡す際、ファン・チェリョンに対し、1977年11月21日までにソ連を出国するよう言い渡し、内務機関が定めたこの期日までに出国拒否をした場合、警護付きで追放することを説明した。(アナトーリー・T・クージン著、岡奈津子・田中水絵訳『沿海州・サハリン 近い昔の話』凱風社、1998年)

冷戦時代の被害者

 逮捕された彼ら一家はウラジオストック経由で同年11月16日、北朝鮮との国境ハサンへ送られて北朝鮮側に引き渡された。

 ソ連時代の市民の生活は、現在のそれのように混乱したものではないが、明らかな抑圧がまかり通っていた。特にサハリンに住む朝鮮人に対する抑圧は、彼らの置かれていた状況とあいまって、冷戦時代の被害者だったことは間違いない。朝鮮半島の南半分を統治する大韓民国(サハリンの殆どの朝鮮人にとっては生まれ故郷である)は当時の冷戦時代にはソ連当局も独立国として扱っていなかったし、国交もない「アメリカ帝国主義の傀儡政権の治める地域」としての認識しかなかった。その後、ペレストロイカ以降、サハリンの韓人会などが、ソ連当局に対して、彼らの生死を含む情報を調査するよう依頼したが、北朝鮮側からの返事がないということで現在のところ不明のままである。