サハリン物語(Web版)ヴァーリャの半生
帰国できるのか?
あるとき私が仕事から帰ってくると珍しく父がとても嬉しそうな顔をして迎えてくれた。「何ごとかな、明日は西から日が昇るわ」と思って聞いてみると、「もしかすると祖国に帰れる」と、ウキウキしていたのだ。ソ連政府から帰国希望者の名簿を調べていると言って、お昼に朝鮮人の知合いが訪ねてきたと言うのだ。フルシチョフ時代になってきてソ連も少しは変わってきた。以前と違って、少しは思ったことを言える時代になったのです。勿論両親も名前を書いて出した。もう苦労も終わって、暖かい故郷に帰るんだ、と朝鮮人社会はまるでお祭りのように賑わって希望に満ちていた。
しかし、いくら待っても政府から何も言ってこない。皆焦りを感じるようになった。1年が過ぎ、2年が過ぎても何も言ってくれない。一体、あの調査は何のためだったのかさっぱりわからないのだった。あちこちで政府に請願書を出そうと動きが出始めた。ロシア語の書ける人に書いてもらって、または若者に書かせて請願書を出す毎日だった。
KGBが動き始めた。
それでも、何の音沙汰もないのだから、各地域の代表者が州政府に抗議に出かけた。悲劇はそれから始まった。KGBが動き始めたのです。抗議デモに参加した人々が1人2人と姿を見せなくなった。事態の深刻さを皆が肌で感じるようになった。しかし、一度燃え上がった帰国への熱望はすぐには収まらなかった。コルサコフのト・マンサンさんは死を覚悟して闘争を始めた。そのおじさんは数回警察に連れて行かれて拷問を受けた。噂によると唐辛子を入れた水を鼻に流し入れられたり、電気で拷問を受けたり、身の震える残酷な話だった。ソ連当局はいろんな手を使って彼を懐柔しようとするが、意志を曲げないから、最後の手段として精神病院送りにしてしまった。
「地上の楽園である社会主義国家に住んでいながら、帝国主義アメリカの下で苦しんでいる南朝鮮に帰ろうとするお前は精神的におかしい」という理由だった。
その病気を治さなければいけないということだった。そこでトさんは変な注射を打たれながら、もう二度と帰国するという話はするな、と自分の誤りを皆の前で公表しろと脅迫されたそうです。しかし最後まで彼は屈しなかった。
北へ強制帰国
そんなことのあったある日、変な噂が広まっていた。デモに参加していた人たちの姿が見えないということだった。その家族皆がいなくなって、家が空家になっているという噂だった。
母の知合いの息子さん一家も一晩で姿が見えないと大騒ぎになった。後に、確認できた話ではデモに参加して最後まで意志を通した人たちを北朝鮮に強制帰国させてしまったとのことだった。既にロシア国籍を持って、モスクワなどで働いていた子どもたちも強制的に連れて来て一緒に送ってしまったそうです。そんなに帰りたいのなら、北朝鮮も祖国だから、返してやるということで。見せしめだったのです。なぜなら、当時北朝鮮に送られるということは、牛が屠殺場に送られるのと同じことだったから。
それからは、帰国のことを口にする人が1人もいなくなった。ロシア語ができるがゆえに人の請願書まで書いてやった人たちは思想犯として監視され、その子どもたちまでも自由を奪ってしまった。北朝鮮への強制送還があったのは1977年の寒い冬のことです。そのとき、生まれたばかりの赤ん坊を含めて37人が姿を消した。