連載「サハリン物語(Web版)」ヴァーリャの半生:M Katayama
戦争の頃
1910年、朝鮮は日本の植民地となった。そして、日本の大陸進出が始まる。それは37年の満州事変から始まり、41年には太平洋戦争にまで発展した。
1905年、日露戦争で日本はこのサハリン島の南半分を獲得した。
1907年にはここに樺太庁を設け、資源開発に力を入れるようになった。豊富な天然資源が眠っているサハリンに日本の企業はどんどん投資を行い、北海道や東北から多くの日本人が働きに移ってきた。
一方、当時大陸進出の足がかりとされていた朝鮮半島の人々の生活は大変苦しいものだった。日本が戦時体制に突入してからは、物だけに止まらず、朝鮮人の命まで欲しがり、戦場や軍需産業の場に強制的に送り込む政策を取った。
そうしてサハリンへ強制連行されてきた人たちは、主に南の方(今でいえば韓国)の出身で、慶尚道、全羅道、忠清道などが多かった。特にうちの親の故郷、慶尚道の人が多いのです。具体的に何人と言われても、答えられない。確かな資料がないから。ただ、こうやって連れてこられて、戦後この島にいた朝鮮人の数は6万人ほどだと聞いたことがある。
そんな時代に私の父は強制連行された大勢の朝鮮人の1人としてこの寒い異国の地に入ってきたの。連れてこられた朝鮮人たちが送られた所は、炭鉱と山。そこには三井、三菱、カネボウ等の大きな石炭会社と王子製紙をはじめとする製紙会社がたくさんあって、今も当時の建物などがそのまま残っている。炭鉱の町として栄えていたのは、ブイコフ、シェブニノという町。そして、製紙産業の町はドリンスク、ウゴレゴレスク、ポロナイスクなどです。その他に港町コルサコフとホルムスクがある。そこには今でもたくさんの朝鮮人が住んでいる。朝鮮人の大部分はコルサコフという港からサハリンへ入って来たそうです。それぞれの故郷から、妻子や親兄弟を置いたまま、釜山まで列車に載せられ、それから日本の下関まで船で行ったと聞きました。日本本土を通って、北海道の稚内や小樽からここに入って来たのです。1週間以上を悲しみと不安、恐怖を抱えて船や列車の中で揺れながら。
親たちの苦労話を聞いてみると悲劇そのものだった。寒さと空腹、過酷な労働に耐えられなくて、自ら首を吊って自殺した人の話は一つや二つではなかった。